大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和39年(ワ)7153号 判決 1966年2月22日

原告

片根智子

原告

片根政弘

右法定代理人親権者

片根智子

右両名訴訟代理人

政田孝朗

被告

双美交通株式会社

右代表取締役

望月登

右訴訟代理人

衛藤恒彦

主文

被告は、原告片根智子に対し金二、八三三、三三三円、原告片根政弘に対し金四、九六六、六六八円、および右各金員に対する昭和三九年一月三一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求を各棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その一を原告らの連帯負担とし、その余を被告の負担とする。

この判決は原告ら勝訴の部分にかぎり仮に執行することができる。

事実

原告ら訴訟代理人は「被告は、原告片根智子に対して金三、五四八、一三九円、原告片根政弘に対して金六、三九六、二七七円、および右各金員に対する昭和三九年一月三一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに請求の趣旨第一項について仮執行の宣言を求め、請求の原因として次のとおり述べた。

「一、昭和三九年一月三〇日午後七時四一分頃、東京都文京区駒込曙町一一番地先都電通りにおいて、訴外高塚留が運転して進行する事業用普通乗用自動車(登録番号足5あ四、一二一号、以下被告車という)が右道路を横断中の訴外片根政治に衝突し、そのため政治は頭部打撲および脳挫傷の傷害を受け、同年二月一一日右傷害により死亡した。

二、被告は乗客の運送を主たる営業とするタクシー会社であつて、当時被告車を所有していたものであるところ、前項のとおり、被告車の運行により、政治の生命が侵害されたのであるから、被告は自己のため被告車を運行の用に供した者として自動車損害賠償保障法第三条本文の規定により、原告両名に対し次に述べる損害をそれぞれ賠償すべきである。<中略>」

原告ら訴訟代理人は被告の抗弁に対して次のとおり述べた。

「被告が被告車の運行供用者でなかつたとの主張は争う。訴外高塚留は被告の被用運転手である吉田正夫の了解を得て右吉田の代りに被告車を使用して旅客運送をしたものであり、さらに高塚は被告車による旅客運送によつて得た売上金を吉田に交付し、吉田は右売上金を被告に交付していたもので、被告は高塚の被告車の運行によつて営業収益を挙げていたものである。以上のとおり、高塚の被告車の運転は被告の被告車に対する支配力を排除してなされたものではなく、被告は被告車の運行による利益の帰属者たる地位を失つたわけでもないので、被告高塚の本件運転は被告のためになされたものというべきである。」

被告訴訟代理人は「原告らの請求を棄却する。訴訟使用は原告らの負担とする。」との判決を求め、答弁並びに抗弁として次のとおり述べた。

「一、請求原因第一項の事実(本件事故の発生と政治の死亡)、および第二項の事実中被告がタクシー会社であり、被告車を所有していたことは認める。被告が事故当時被告車の運行供用者であつたとのことは争う。<中略>

二、(抗弁一、被告が本件事故当時被告車の運行供用者でなかつたとの主張)

被告は本件事故当時被告の被用運転手である訴外吉田正夫に対し、被告車の使用を委ね、タクシー業務に従事させていたが、吉田正夫は被告の了解をうることなく、ほしいままに高塚留に被告車を貸与し、同人をして、タクシーの業務に従事させていたところその運行中本件事故をみるに至つたのである。被告は高塚留とはなんらの関係および面識もなく、同人が被告車を運転していたことも全く知らなかつた。高塚留は吉田のために被告車を運行し、これによつて得た売上金を吉田正夫に交付し、吉田はそのうちから歩合金を高塚に支払つていたのであるが、これらのことも被告として関知していない。

右のとおり、高塚留の被告車の運転は、被告の被告車に対する支配力を排除してなされ、かつ被告は高塚留の右運転につきなんらの運行利益を享受していなかつたもので、結局本件事故当時において被告車の運行供用者の地位にあつたものは吉田正夫であつて、被告ではなかつというべきである。<中略>」

証拠として、以下≪省略≫

理由

一、請求原因第一項の事実(被告車による事故の発生およびこれによる片根政治の受傷死亡)は当事者間に争いがない。

二、次に被告が被告車の所有者であつたことは、当事者間に争いがなく、これによれば、被告は被告車を自己のため運行の用に供しうべき地位にあつたということができる。

三、しかるに被告は、高塚留による本件被告車の運行は被告の了解を得ないでなされた運転であつて、本件事故当時においては被告は被告車の運行供用者たる地位を有していなかつたと主張するので判断する。

<証拠>に弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認定することができる。吉田正夫は約一〇年位前からタクシーの運転手をするようになり昭和三九年一月二五日頃から被告会社に雇傭され、タクシー業務に従事していた。ところで当時東京都台東区浅草馬道所在の喫茶店「モカ」はタクシー運転手の溜場となり、当時二、三〇名の者がたむろし、そのなかには自己の勤務するタクシー会社から営業のために使用を委ねられた乗用自動車をどのタクシー会社にも所属しない有資格又は無資格の運転手に貸与して自己の代りにタクシー業務に従事させ、その間仕事をしないで寝たり遊んだりして暮している運転手も少なからずあり、右「モカ」に出入する者で自動車を借り受けて運転する者は一五、六名はいた。右のような自動車の貸借は、運転手仲間の間では、「ハンドル貸し」と称されていたが、貸借の条件は必ずしも一定せず、人と時によりそれが異なり、ときには一定の時間(通常はまる一日間)の使用料を定めて貸与し(使用料は前払のときもあるし、後払のときもある)、借受人は売上金のうち使用料を起過する分を自己の収益として取得し、あるときには総水揚(総売上金)の二割に相当する金額を報酬として授受するとか、あるいはさらに自動車備付けのメーターに記録された乗客走行距離に応じた(例えば一粁当り三〇円といつた具合に)金額は全部貸与した運転手に交付し、それ以外の、例えば俗にエントツといわれる、泥酔客とかのようにメーターを意識しない乗客の場合にメーターを立てることなく取得した代金や特殊の女、旅館を世話した代償として貰ういわゆるポン引代やその他チツプなどを借受人の収益とするとかいつたものであつた。右のいずれの場合においても他に貸与した正規の運転手は、所属するタククー会社から記載することを命じられた乗務(運転)月報に、タクシー会社に怪しまれないように借受人から受取つた金額の範囲内で走行粁等と照合して正常な運転業務をしたかのように糊塗記載したうえ、その金員を自己が自ら稼働して挙げた売上金としてタクシー会社に提出していた。ハンドル貸しを受けた運転手は、通常の運転手が二四時間で三〇〇粁から三五〇粁走行するのに対して同じ時間内に四〇〇粁から四五〇粁位走行して通常の運転手よりも相当多くの売上金を取得するから、右のような乗務日報上の操作も可能であり、タクシー会社としても、ハンドル貸しの事実を知ると否とにかかわらず、これによつて通常の収益は挙げる結果となつていた。吉田正夫もかねてから「モカ」に出入りしていたが、昭和三八年末頃から同じく同店に出入して運転の資格を有しないままハンドル貸しによるタクシー業務に従事してこれを生業としていた高塚留を知るようになり、同人の求めにより、あるいは自己の身体の調子が悪るく稼働する意欲がないときなど自ら何人に依頼してハンドル貸しをするようになつた。その回数は本件事故当日を含めて約六回位であつたが、その半数は吉田正夫が被告会社に勤務する以前のほかのタクシー会社の自動車であり、その余が被告会社に入つてからのものであつた。吉田が被告会社に入社してから本件事故発生当日まで短期間ではあつたが、売上金の納入はきちんとしており、このことについて問題となるようなことはなかつた。又当時「モカ」には吉田のほかに被告会社に勤務するタクシー運転手二、三名が出入し、ハンドル貸しをしていたが、被告会社との間に売上金の納入のことで問題となるようなことはなかつた。昭和三九年一月三〇日午前八時頃吉田正夫は被告会社に出勤し、配車係から本件被告車の配車を受け、タクシー業務を開始したが、午後五時頃になつてモカに行き、かねてハンドル貸しを打合せて同店に待つていた高塚留に総水揚げ料金の二割を渡す約束で被告車を渡して使用を委ねた。そして吉田はパチンコをしたり映画を見たりして時間をつぶし、高塚が運転して帰るのを待つた。一方高塚はいつものごとく被告車を運転して乗客を拾いタクシーの仕事をするうちに本件事故の発生をみるに至つた。被告会社側では後日高塚、吉田らが業務上過失致死、証拠いんめつなどの嫌疑により逮捕されたことが新聞に報ぜられるまで、高塚という人物および吉田と高塚の関係など一切知らなかつた。

以上の認定事実によれば、被告はその被用運転手である吉田正夫に被告車の使用を委ね、同人にタクシー業務を営ましめていた間、被告車の運行供用者であつたと認むべきことはもちろんであるが、さらに吉田において高塚留に被告車の使用を委ねた後においても、一定の時間の経過後においては被告車は高塚から吉田に返還されることを当然予定されている関係にあつた(この点いわゆる泥棒運転と称される無断運転とはその趣旨を異にする)のであるから、被告の主張するとおり、被告において被告車を高塚が運転して使用することについて同意を与えあるいはこれを諒知した事実がなかつたとしても、そのことから直ちに被告の有する被告車に対する一般的な支配力が排除されたものとは認め難い。すなわち依然として被告は吉田正夫を通じて被告車に対する支配力を有し、しかも高塚による被告車の運行により旅客運賃を取得し(ないしはその可能性を有し)十分被告車の運行利益を享受していたのであるから被告は高塚が被告車の運転を始めた後においても被告車を自己のために連行の用に供するものとしての地位を失うことなくこれを持ち続けていたものといわなければならない。

よつて被告の主張は失当として排斥せざるをえない。

三、そこで、本件事故により政治および原告らが蒙つた損害およびその額について判断する。

(一)  政治のうべかりし利益の喪失による損害

<証拠>を総合すると次の各事実を認定することができる。

政治は昭和一一年三月二六日生れの健康な男子で、本件事故による負傷および死亡当時は満二七歳であつた。同人は中央大学夜間部を卒業し昭和三四年頃医学関係の書籍の出版と洋書の輸入販売を業とする訴外医歯薬出版株式会社に入社し、同三八年四月洋書課の係長に昇任し、本件事故当時もその地位にあつた。事故当時同人が右会社からきまつて支給されていた月当りの賃金は、(イ)基本給二六、〇二〇円、(ロ)役付手当二、〇〇〇円、(ハ)家族手当一、五〇〇円、(ニ)職種手当(政治は自動車運転免許を有し、右会社の自動車の運転をすることがあつたので、自動車運転要員に支給される運転手当を職種手当として支給されていた)一、五〇〇円、(ホ)出向手当(右会社の別館に勤務している者に支給されているもので、政治も右別館に勤務していた)一、〇〇〇円以上合計金三二、〇二〇円であり、右の金額になつたのは同三八年一一月以降である。このほかに同人は残業手当として昭和三八年一月から一二月までの間に合計金二五、七八〇円の支給を受け、さらに賞与として同年七月に七一、四三〇円、一二月に六五、四六〇円、合計金一三六、八九〇円を支給された。

右医歯薬出版株式会社は昭和二六年八月設立されたが、その前身は右会社の社長である訴外今田見信が個人で大正一〇年頃始めた同じ医学関係の出版業であり、右会社の重要な役員は右今田の長男、次男等身内の者がこれを占め同族会社の要素の濃い会社である。資本金は現在三六〇〇万円で、営業成績は仕事柄地味だが、着実に発展し、職員の給与も定期的に、又それに加えて臨時的に昇給している。

政治は右会社の社員として職務に忠実で、積極的であるところから、右会社からその能力を認められ、将来の昇進が約束されていた。しかも同人は右会社の社長に見込まれ、昭和三七年三月右社長の三女である原告智子と結婚し、このこととその能力手腕から将来は右会社の役員に就任することはほとんど確実であつた。右会社の従業員の定年は就業規則により原則として六五歳と定められているが、役員には定年制がなく、かなりの老令の者も現に就任している。

以上の認定に反する証拠はない。右認定に、満二七歳の健康状態の普通の男子の平均余命年数が第一〇回完全生命表によると四二・三五年であることを併せ考えれば、政治は本件事故に遭遇しなければ爾後さらに少くとも原告らの主張する四〇年間は右出版会社の従業員次いで役員として就労可能であり、その間少くとも毎年金五四六、九一〇円の収入を挙げえたであろうことが推認できる。

そして、原告智子本人尋問の結果によれば、政治は本件事故発生当時自己個人の生活費として毎月約金一八、〇〇〇円あて費消していたことが認められるから、これを年にすれば金二一六、〇〇〇円となり、結局において政治の年間純収益額は金三三〇、九一〇円ということができる。

右四〇年間の年金的利益の現在価格(本件事故の日の翌日における一時払額。なお、本件事故発生の日と政治の死亡日との間には一〇日余りの期間があるが、右期間中政治が就労不可能であつたことは弁論の全趣旨により明らかである)を、法定利率年五分のホフマン式計算法により中間利息を控除して計算すれば金七、一六〇、八九二円(円未満切捨)となること係数上明らかである。

(二)  政治の慰藉料

政治は前認定のとおり本件事故により致命傷を受け、妻と幼い愛児である原告政弘を残して(原告政弘が政治とその妻原告智子との長男として昭和三八年七月五日に出生し、本件事故当時未だ半年余であつたことは<証拠>により認められる)死亡したのであるが、これにより多大の肉体的精神的苦痛を蒙つたことは明らかである。これに諸般の事情を斟酌すれば同人に対する慰藉料の額は原告らの主張する金一、〇〇〇、〇〇〇万円をもつて相当と認める。

(三)  原告らの慰藉料

原告智子は政治の妻であり、原告政弘は政治の長男であることは前に認定したとおりであり、<証拠>によれば、政治は本件事故により脳の半分がめちやめちやになり、意識を失いながらそれでも心臓が強いところから、東大病院に入院後一〇日間生存し、その間原告智子がずつと附添つて看護したこと、政治の死亡後原告智子は生活のために父の経営する前記出版会社に勤務するようになつたことが認められ、右事実によれば、原告らにおいて事故当時はもとより、将来においても多大な精神的苦痛を受け、かつ受けるであろうことは容易に推測されるところである。これに諸般の事情を斟酌すれば原告智子に対する慰藉料の額は原告らの主張する金五〇〇、〇〇〇円、原告政弘に対しては同じく金三〇〇、〇〇〇円をもつて各相当と認める。

(四)  原告らの相続

原告らは政治の妻および子として前記(一)および(二)の政治の被告に対する損害賠償請求権を、原告智子においてその三分の一、原告政治においてその三分の二宛相続する地位にあること明らかである。

四、(過失相殺)

被告は、政治にも過失があつたと主張するので判断する。まず政治が被告車の前を小走りに左から右に横切つて来たとの点については、<証拠>中には右に副う部分があるけれども後記の証拠に対比してはわかに信用し難い。しかし、<証拠>を総合すると、高塚が被告車を運転して時速約四〇粁で巣鴨方面から白山上方面に向け複線の都電軌条のある通称中仙道を進行し本件事故現場付近にさしかかつた際前方に先行するトラツクを発見し、それを追越そうとして時速を約五〇粁にしてトラツクの右側、道路センターラインよりにでたところ、右道路を高塚の進行方向からみて左から右へ横断しようとして、すでに道路のセンターライン附近まで渡り切り、そこで白山上方面から巣鴨方面に進行する自動車の通り過ぎるのを待つて佇立していた政治を、四、五米の至近距離に至つて発見し、これを避けようとして急拠ハンドルを左に切つたが及ばず、被告車の右前部を政治に激突させるに至つたこと、本件事故の発生した中仙道は自動車の往来が相当繁しく、横断歩道でない箇所における歩行者の横断はかなり危険であること、本件事故発生地点から白山上方面寄り約五〇米の地点に横断歩道が設置されていることが認められる。そして一般に自動車の往来の繁しい道路においては、特段の事由のないかぎり歩行者は横断歩道を通つて道路を横断し、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるというべきであるから、政治が必ずしもそう遠いとはいえない地点に横断歩道があるのにこれを渡らず、それ以外の個所を横断しようとして、右認定のような事故の発生を見た以上、前示注意義務の懈怠が事故の一因といわれてもやむをえないものと考えられる。

よつて、政治の右過失を斟酌するならば、被告が原告らに対して賠償すべき損害額は、前記三の(一)につき金六、五〇〇、〇〇〇円、同(二)につき九〇〇、〇〇〇円をもつて相当と考える。

五、よつて本訴請求は、被告に対し、原告智子が政治から相続した前記三の(一)および(二)(ただし前記四で過失相殺をした額)の合計額七、四〇〇、〇〇〇円の三分の一と同(三)の額の合計金二、九六六、六六六円から原告智子が自動車損害賠償責任保険から受領した保険金一三三、三三三円を差引いた金二、八三三、三三三円、原告政弘が政治から相続した前記三の(一)および(二)の合計額七、四〇〇、〇〇〇円の三分の二と同(三)の額の合計金五、二三三、三三四円から原告政弘が自動車損害賠償責任保険から受領した保険金二六六、六六六円を差引いた金四、九六六、六六八円、および右各員に対する本件事故の発生の日の後であること明らかな昭和三九年一月三一日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分については正当としてこれを認容し、その余は失当として各棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条第一項を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。(吉岡道 岩井康倶 浅田潤一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例